人魚の眠る家/東野圭吾

 

人魚の眠る家

人魚の眠る家

 

 東野圭吾の社会派小説である。

答えてください。
娘を殺したのは 私でしょうか。
愛する人を待つ、すべての人へ。-
帯より

娘の瑞穂は幼くして脳死状態となってしまう。
愛する娘が“死”んだのか、受け入れられない母を中心に描いた作品。

そもそも目の前で人工呼吸器をつけているだけで心臓が動いている娘を“死んでいる”と受け入れる方に無理がある。本作は母親の苦悩や父親、周囲の人びとの苦悩を描きながら、訴えかけてくる「あなたはこの子の死を受け入れられるのか」。

脳死はあくまでも社会が定義した“死”だ。
心停止のように置いておくと全体が細胞が壊死するようなものではない。ただ脳が死んでいる“らしい”と伝えられるが、目の前にはチューブに繋がれて胸が上下する愛する人がいるのだ。どうして死を受け入れられよう。

日本は、脳死から先の処置を本人の意思や遺族の意思に委ねる。

「非常にわかりにくいルールではあります」進藤がいった。「世界でも特殊な法律です。他の多くの国では、脳死を人の死だと認めています。したがって脳死していると確認された段階で、たとえ心臓が動いていたとしても、すべての治療は打ち切られます。延命措置が施されるのは、臓器提供を表明した場合のみです。ところが我が国の場合、まだそこまで国民の理解が得られていないということもあり、臓器提供に承諾しない場合は、心臓死をもって死とするとされているのです。極端な言い方をすれば、二つの死を選べるということになります。最初に権利という言葉を使いましたが、お嬢さんをどのような形で送り出すか、心臓死か脳死か、それを選ぶ権利があるという意味です」
 医師の説明に、ようやく事情が呑み込めたのか、薫子の肩からふっと力が抜けたのがわかった。彼女は和昌のほうを向いた。
「あなた、どう思う?」(P.42、43)

苦しむ家族を書く一方で、臓器提供を待つ人たちにも東野圭吾は焦点を当てる。どちらの立場にも寄り添いながら、現代の苦しみをこれでもかと突き付けてくる。

果たして“脳死”とは一体何なのか。
脳死”と推定された人の家族は、どうするべきか、また国はどうアプローチしていくべきか、まだまだ大きな課題を抱えた問題であると考えさせられた。