東京奇譚集/村上春樹
「偶然の旅人」
東京多摩川に住むゲイのピアノ調律師が小柄な女性と偶然に出会い、その出会いが調律師に微かな光を見せる。
「そう」と彼はプジョーの計器パネルに向かって言った。「ひとつの経験則として」
「かたちのあるものと、かたちのないものと、どちらかを選ばなくちゃならないとしたら、かたちのないものを選べ」と彼女はくり返した。
「そのとおり」
彼女はひとしきり考えた。「そう言われても、今の私にはよくわからない。いったい何にかたてがあって、何にかたちがないのか」
「そうかもしれない。でもそれはたぶん、どこかで選ばなくちゃならんあいことなんです」(P.34,35)
「ハナレイ・ベイ」
19歳の息子をハナレイ湾(ベイ)でなくしたピアニストは、毎年秋の終わりにハナレイ湾に滞在する。
「女の子とうまくやる方法は3つしかない。ひとつ、相手の話を黙って聞いてやること。ふたつ、着ている洋服をほめること。3つ、できるだけおいしいものを食べさせること。簡単でしょ。それだけやって駄目なら、とりあえずあきらめた方法がいい」
「それって、すげえ現実的でわかりやすいですね。手帳に書き留めといていいですか?」(P.92)
「どこであれそれが見つかりそうな場所」
9月3日の日曜日に24階と26階を結ぶ階段の途中で、痕跡も残さず、消えてしまった男の捜索を依頼された男の話。
「日々移動する腎臓のかたちをした石」
小説家の男は、職業不明の聡明な女性と知り合う。
その石は外部からやってきた物体ではないのだろう―物語を書き進めているうちに、淳平にはそれがわかってくる。ポイントは彼女自身の内部にある何かなのだ。彼女の中のその何かが、腎臓のかたちをした黒い石を活性化している。そしてそれは彼女に、何かしらの具体的行動をとることを求めている。そのための信号を送り続けている。夜ごとの移動というかたちをとって。(P.169)
「品川猿」
ときどき自分の名前を思い出せなくなった女性は、カウンセリングを受ける。名前だけ思い出すことができなくなったのは、猿が原因だった。
「このお猿は品川区の下水道の中に潜伏していたのよ」と坂木哲子は言った。(P.232)
都市での不可思議な世界を集めた5つの物語。短編集ながら春樹ワールドを愉しめる。短編集だからこそ『気楽に』春樹の世界を愉しみたいときに薦めたい1冊。